幸福論―“共生”の不可能と不可避について (NHKブックス)

幸福論―“共生”の不可能と不可避について (NHKブックス)


「主よ、変えられないものを受け入れる謙虚さと、変えられるものを変える勇気と、その両者を見分ける知恵をお与え下さい。」という言葉がある(正確な記述かどうかはわからないが)。この本の議論はまさにこれを巡る問題。


宮台氏の立場は、「ソーシャルデザイナーの跋扈は常に、既に生じている。ならばそのからくりを喧伝し、危機感を惹起することで多様なソーシャルデザイナーが生まれる動機を形成し、その結果としてソーシャルデザインのある程度の公共性と質が実現されることを期待する。」というもの。それに対して、堀内氏、鈴木氏は、ソーシャルデザイナーというエリート層の存在を不用意に肯定することに抵抗する。


しかし、もしもソーシャルデザイナーの跋扈が「変えられないもの」であるならば、それは受け入れつつ、ソーシャルデザイナーの生み出され方、あるいは「跋扈の仕方」を変えるという目標にしぼって努力すべきではないか、ということになる。何が変えられるもので、何が変えられないものかというクールな見極めが重要。変えられないものに対して、「変えるべきである」と熱っぽく言い放ってみたところでどうにもならない。「言うだけ」なら誰でも出来る。それが結果に結びつくかどうかが、あるいは、それのみが問題だ。


「言うだけ」はもちろん「行動するだけ」でさえ、結果に結びつくと言う保証は無い。結果をもたらそうとするなら、そこから逆算して適切な発言と適切な行動を選択する必要がある。それが「機能の言葉」だ。



しかし、一般に「機能の言葉」は評判が悪く、「〜は本来〜である」「〜は〜であるべきだ」という、「真理の言葉」を人は求める。


真理の言葉を吐く人間は、その言葉の前提条件だったものを忘却している。これは、ある種の自己催眠だ。「非理性的になるという結果を招く飲酒行為を理性的に選択する」ようなものだ。しかし、「酔った上での行為」に人々が甘いのと同様、この種の自己催眠に社会は寛容だ。それどころか、周囲の人間はこれにしばしば感染し同様の催眠状態に陥る始末だ。だからこそ、皮肉にも「真理の言葉」が「機能」してしまいがちなのだ。つまり、真理の言葉とは、看板を架け替えて発せられた「機能の言葉」なのである。そしてしばしば、この「機能」の帰結は大きな問題を生む。


そういう意味で、鈴木氏、堀内氏の「真理の言葉」にはフラストレーションを覚える。単に「現実を見たくない」「現実を認めたくない」と言っているように(=変えられないものを変えられると詐称しているように)聞こえるからだ。そして皮肉にも、そのような真理の言葉が、むしろ宮台氏の言葉よりも多くの人々を慰撫するという形で正に「機能」し、現実を変えうる別種のソーシャルデザイナーの誕生へ向けての動機付けを阻むように思われる。


しかし同時に、特に堀内氏の、ソーシャルデザイナーへの不信感というものも理解できる。宮台氏の本書での議論に限って言えば、ある特定の利益に向けて結託することなく、公共性への動機と多様性を持ち続けるソーシャルデザイナーが生み出されるという保証が、どのような具体的な教育プログラムによって得られるのかが不明だからだ。また、そのような教育プログタムをたとえ誰かが「プラン」できたとしても、それが適切に「運用される」ということが(ゆとり教育の失敗例と同様に)ありえそうもないからだ。


とはいえ、結局のところそれしか方法はないだろうとも思う。具体的に、どのようにプログラムをプランニングし、運用するかが問題だ。


そうなった時に、自分は一体どのような立場でこのような構想に参画すべきなのかということを考えてしまう。少なくとも自分自身は、宮台氏が本書で要求するような水準のソーシャルデザイナーにはとうていなれそうにない。であれば、そのような(自分よりはるかに頭のよい)ソーシャルデザイナーを生み出す人材育成手法を考えるべきなのか、あるいは、それもまた他人に任せ、そのような教育者(=教育環境設計者)が活動できるような周辺支援を行うべきなのか。