(昨日の続き)

宮台氏の議論は、まず現状認識があって、その問題点の指摘、そしてそれに対する処方箋、という三部構成になっている。それに対して鈴木氏、堀内氏の反論は、処方箋によって起こりうる副作用に対する懸念を示すという形をとっている。あるいは、現状認識自体が、「人間主義的価値観」からは受け入れ難いので、それを「否認」しようとする傾向が見られる。


しかし、いくら副作用に対する懸念を示したところで、現状認識を否認してみたところで、現状の問題点を解決することはできない。現状認識や問題点の指摘そのものに対して根拠のある異論を唱えるのならまだわかるのだが、それについては殆ど不問で、処方箋に対する懸念の表明に終始している。もし現状認識と問題意識について異論が無いのであれば、処方箋の代替案を出すべきではないか。そうしなければ現状の問題は放置されたままだ。そのような問題を放置すること自体、社会科学者としての責任を問われることになると思う。


あるいは、せめて、宮台氏の処方箋をとりあえず(あえて)認めてみせた上で、その実現可能性についてより具体的な形で宮台氏自身に説明を求め、そこに問題があれば指摘するという議論の戦略をとったほうがよかったのではないか。つまり、もしその処方箋に問題があるのであれば、みずからそれを語らせるように誘導すればよかったのではないだろうか。


どうも議論の仕方がナイーブすぎるような気がする。もちろんこれは彼らに限ったことではなく、宮台氏の対談相手は大抵の場合、どんどん手詰まりになって、いつの間にか「それでも自分は〜を信じたい」というようなやけっばちというか開き直りと言うか、自閉的な願望を口にしてしまうことが多いような気がする。


それから、特に鈴木氏の発言には、なんだか「名付ければそれでOK」と思っているような気配を感じる。「感情の豊かさなどの、ある種の人間学的部分をもう一度復活」って何だろう?「感情の豊かさを復活させよう!」って言えば感情は豊かになるのだろうか?そもそも、どんな感情が「豊か」なのか、誰が決めるのだろう?「統御論一辺倒に反対」って言うけれど、イメージの悪い言葉で呼んでそれに反対を唱えれば何か問題が解決するのだろうか?