「やってみれば何とかなる」

やってみれば何とかなる、とよく言われる。

実際に起こっていることは、「何とかなる」という言葉から連想されるような牧歌的な現象ではない。戦略の切り替え(「利益の最大化から被害の最小化へ」「複数目標の追求から単一目標の追求へ」など)、情報処理プロセスの当該の問題解決への集中、曖昧な状況下での知覚の単純化ヒューリスティックスに基づいた行為の選択肢の絞り込み、結果に対する期待値の切り下げ、それでも望ましくない結果を招いた時のための受け入れ準備(結果の肯定的な解釈、自分の問題から切り離すことによる無害化)などを全て、リアルタイムで迅速かつ適切に行っているのだ。そうでなければ「やってみる」ことさえできない。

これは、「何とかなる」というような受動的な現象ではなく、極めて能動的なプロセスだ。「何とかなる」のではなく、「何とかする」のだ。

人間は「何とかし続ける」生き物であり、我々が今ここにいるのは「何とかし続けてきた」からだ。そうでなければ我々は生き残ってはいない。
それでは、我々人間は誰でも等しく「何とかする」能力を持っているのだろうか?

我々の中には1センチの高さにバーを掲げて飛び越える者もいれば、1メートルの高さに掲げて飛び越える者もいる。人それぞれ「何とか」しているとしても、その「何とか」の中身は全く違うはずだ。ではなぜ1メートルの高さにバーを掲げる者は、1センチの高さに掲げて楽をしないのか?

その者は、別に伊達や酔狂でそんなことをしているわけはない。その者の視界には、1メートルすれすれの高さの「針の山」が見えているのだ。バーを飛び越えざるを得ないようなビジョンが。それは時には恐怖と苦痛であったり、時には絶望的な退屈や喪失感であったりする。

それは、我々一人一人の生きる世界の「切実さ」に他ならない。切実さとは、我々が「存在を無視することができない」ものである。切実さに満ちあふれた視界の中で、我々の自由は、想像している以上に少ない。

切実さと能力。その間の狭い領域が、我々の通ることの出来る道だ。切実さが能力を超えたとき、我々に成し得ることは極めて限られている。

我々は切実さのバーを越えるためになんとか自らの能力を高めようとするが、それにも限度がある。一方、切実さそのものは変えることができない。

我々に残された選択肢は、「自らの切実さに対する知覚」を変えることだ。自らの切実さの高さを見誤る「詐術」を使うことだ。切実さの針の山に触れて血が流れても苦痛を感じないように、感受性を操作し、意味を変換することだ。もちろん切実さとは「存在を無視することができない」ものであるから、いくら感受性を操作し意味を変換したところで、それを完全に世界から追い出してしまうことはできない。