総じて、モチベーション不足の時代である。
その上、個々人のモチベーションの方向性がますます多様化してきている。
特定のインセンティブで一律に他人を動員することが困難になってきている。


他人に影響力を与えようとする側の人間は、根気よく、きめ細やかに「対話」を重ね、相手のニーズを知ろうとしなければならない。
しかし、そのような努力を初めから放棄して、人間に最低限共通する生理的メカニズムを利用した影響力の行使に舵を切る傾向も増してきている。


私たちは、「対話」のための方法論を知らなすぎるのだろう。それは、「他人から影響力を与えられる側の人間」にとっても同様だ。相手からどのような影響力をどのように与えられたいのかを効果的にプレゼンテーションするスキルというのも、実は重要なのだ。



[追記]
結局何が言いたいのかと言うと、モチベーションとか感情とか他者への影響力などというものが、「自然に沸き起こって」きたり「自然に伝わっ」たりするという幻想をもう捨てようではないかということだ。他者のモチベーションを認識するのも、喚起するのも「作為」であり、それどころか自らのモチベーションを認識することさえ「作為」である。


欧米人と接していて、表情、というか感情表現がきわめてデジタルでクリアだなと思う。これは、感情がデジタルでクリアなのではなく、あくまで感情「表現」がクリアなのだ。自分の持っている感情がどれほど曖昧であったとしても、それを他人に表す時にはデジタルでクリアなものに変換する。そうしてコミュニケーションを意図的に駆動していく。このような、コミュニケーションをデザインする意思を、欧米人には強く感じる(もちろん例外もいるが)。感情が曖昧なのは人間なら当然だ。恥じることなど何も無い。ただし、ある意図を持ってコミュニケーションを駆動しようとするのであれば、それなりに感情表現を選び、デザインしなければならない。表情に代表される感情表現の機能とは、「自分はこんなえも言われぬ心の状態なんですけど・・・」ということを漠然と伝えることではなく、「自分がこのような感情を持っているということを前提にあなたとの今後のコミュニケーションを進めていきたいがいかがでしょうか?」という提案、なのである。


感情表現だけではない。モチベーションしかり。自己イメージしかり。他者への影響力しかり。


このような考え方には反感を覚える者が当然いるだろう。それでは自然な感情を殺すことになるのではないか、ありのままに生きてどうしていけないのか、と。しかしそもそも、自然とは何か。ありのままとはなにか。それこそ、かつて共同体により無意識にデザインされた人工物だったのではないか。共同体が弱体化した結果、単にその(もともとそうであった)人工性があらわになったにすぎないのではないか。


私は全く逆に考える。私たちの感情表現やモチベーションの自己認識、他者へのニーズのプレゼンテーション等等をデザインするという「作為」は、そのようなレイヤーを私たちと社会の間に挟むことによって、むしろその「自然なるもの」「ありのままなるもの」を守ることにさえなるのではないだろうか。そのような「デザインされたレイヤー」が無かったからこそ、我々の内面は無防備なまま放置され、侵食されるままだったのではないだろうか。


当初のエントリと全然違う方向に話が来てしまったが、まあいいか。結局言いたいことはこういうことだ。