広告とは、無料の商品販売行為である。

広告も商品販売も、結果としてある価値を消費者に届けようとしていることにはかわりないわけですよね。商品が売れるために広告を行うわけですが、そもそもそれでどうして商品が売れるようになるかと言うと、単に認知度が上がるとか興味がわくとかいうことにとどまらず、その商品を買った時の「実際の体感価値」が向上するから、それを消費者が予期するからだと思うんですよ。具体的に言うと、CMが与える企業のブランドイメージを自分のイメージ向上に活用できるとか、その商品を使った時に充実した体験を味わえるとか、その商品を持っている他者との連帯感や、持っていない他者への優越感を味わえるとか、そういうもろもろのことが全部組み合わさったものを、「他の消費者がみなおなじように感じていることを十分な蓋然性のもとに予測できる」という前提の下に、いわば「無料の商品」として、我々は広告に接した時点で既に買っているのではないか。「将来の体験の予期」という商品をね。


実際、その広告を知らずにその商品を購入した消費者と比較して、「将来の体験の予期」を無料購入した消費者の満足度は明らかに大きいはずだ。なぜなら、モノの価値はもはやそれ単独で決まるわけではなく、周囲の文脈とどのように結びつけられるか、それを他者とどのように共有できる(と期待できるか)という意味付け、物語の生成に大きく依拠しているからだ。


そんなすばらしい「将来の体験の予期」としての「広告」を日々無料で手に入れている我々。本当なら、広告には莫大な制作費がかかっているわけだから、制作者は当然売った時点で対価をもらいたいだろう。しかしこの商品(タイプA)はあくまで「将来その広告が対象としている商品(タイプB)を購入したときに初めて成就する価値」を売っているので、その場で対価を回収というのはなかなか難しい。しかも、広告はいまのところマスメディア経由が殆どで、一斉発信だ。誰の購買行動にどのような影響を与えたのかをトレースするのが難しい。もちろん、この費用は商品価格に転嫁される。


言ってみれば、インフラを整備する公共事業のようなものだ。こういったタイプのプ商品は、人々は税金などという見えない形で一律徴収されているが、利用者の個別の消費行動だけにまかせていてはとても売買が成立しない。人々は、税金のことを忘れ、これを「無料の商品(タイプA)」だと位置づける。例えばそれが道路であれば、人々は自動車交通の便利さを予期し、自動車(タイプB)を購入するようになる。(その税金がふたたび道路整備に回ったりするわけだ。)


このように商品は、無料かつ一律に供給されるタイプAと有料かつ個別に供給されるタイプBにわかれるわけだが、果たして他の種類はないのだろうか?
たとえば、タイプBの商品価値を事後的に高めるような、無料かつ個別に供給されるタイプA'の商品(情報)(=アフターサービス?)だってあるだろうし。購入者のみをターゲットとして、その商品にまつわる、その商品の価値が高まるような物語を伝える、というようなことをやったっていい。既にその商品を購入した者にとっての広告って、そういう意味もあるのかもしれない。その辺りをもう少し意識したら、ものすごく顧客のロイヤリティーが高くなるんじゃないかな。
そう考えると、あらゆるものが商品であって、対価と取引形態が違うだけではないかと思えてしまう。その辺で企業がアウトプットするあらゆる財とサービスと情報を「消費者の視点で!」統一的に整理できないだろうか。


このあたりの話とうまくつなげられないかな。

ものづくりとは単に人工物の製造ではなく、それを手段とした社会改造として捉えると、ある種のファッション企業の活動が綺麗に見えてくるのではないかと思うのである。社会貢献企業論などは、この目線で論じられるべきであろう。

まず社会構想があり、それにしたがって社会文化が評価され、それにしたがって製品企画が評価され、それにしたがって製品設計情報が評価され、それにしたがって製品現物が品質評価を受ける。こうして考えると、商行為も経済行為も産業現象も、ものづくり論の手法で解析できるんじゃないかな。
社会構想の品質はなんで判定されるか?その構想の良し悪しを決める社会の原理とかあるのかな。あるんだろうけど、それは人間に関知できないのではないか。となると人間が携われるのは社会構想と社会文化の整合性であって、人工物を介して両者が相互学習をするというのが究極の枠組みかな。

http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20070104/1167848080


社会改造っていうのは何も商品単体でやらなければならないわけではないんだし、広告とか、各種販売促進とかタイアップとか、そういうのを全部総動員して社会を構想し、改造すると考えればいいのではないだろうか。


でも、社会改造を目指したり社会構想をしているのは企業の人なのかな?企業の人だけなのかな?たとえその部分にとりあえあず焦点を当てる「作業仮説」だったとしても、彼らはどこからそういう影響を受けたり、制約を受けたりしているのかな?企業外の人間が、社会構想を立案するにあたって果たしている役割についてはどうなんだろう?
そういう構想とか情報とかいうものは全て基本的には境界を越えて循環しているものだと思うが。(そうでないとそもそも社会に対して有効な商品による有効な改造なんてできないだろうし。)