私たちはなぜ他人の「問題解決」をしたがるのか?


自分の問題解決だけで手一杯だと言うのに。
他人の問題を解決することが、自分の問題解決の道筋になっているのだろうか。


一口に問題解決と言ってもいくつものレイヤーがある。
より表層的な状況から、その原因、そのまた原因を辿っていき、どこまで深いレイヤーで問題を解決するか。
あるいは、直接的な行為から、その帰結、そのまた帰結を辿っていき、どこまで上位の目的を設定するか。
どの深さのレイヤー、どの上位目的を対象にするか(そして、対象にする能力を持っているか)ということに、その人の問題解決志向の本質が表われる。


他人の問題を解決するということは、単純な義侠心もあるだろうが、むしろ自分の問題を解決するためのシミュレーションであり、てこであり、共鳴板である。それどころか、もはや解決不可能な自分の問題を、受け入れ可能な形で修飾するための迂回路でもある。


よく、科学は真理の究明で、工学は問題解決であると言われる。しかし私は、科学もまた、一種の認識的、というか「脳内問題解決」だと思う。そのままではどうにもおさわまりのわるい不安定な脳の状態、という問題を、「真理を究明する=安定状態にする」ことによって解決するのだ。あらゆる学問も、芸術も、文学も、スポーツも、もっと言えば全てのコミュニケーションと行為は問題解決なのだろう。


では、問題は解決してしまえばそれでよいのか?問題の無い状態が理想なのか?自分や周りの人間を観察していると、どうやらそうではないように思える。むしろ私たちは常に、「問題」を欲している。「問題を解決した状態」が目的なのではなく、「問題を解決するプロセス」自体を求めているかのようだ。私たちは、虚無感に押しつぶされてしまう恐怖から逃れるために、たとえそれを捏造してでも、一生問題を解決し続けなければいけないという強迫観念にかられている。


私たちは、世界を、問題のパターンとして認識しながら生きている。世界は問題によって構成されているのであり、そうでなければならないのだ。


私たちは今、問題に取り組んでいる、問題を解こうとしている、と自覚することによって初めて、生きている資格を与えられているような気がするのだ。だからこそ、それが自分の問題であろうが他人の問題であろうが、実はあまり関係ないのだ。「問題に取り組んでいる」のが「自分」である限りは。


それならば、私たちが時に、それほどまでに渇望する「自分の問題」を他人に解決してもらおうとするのはなぜだろう?なぜ私たちは、他人に助けを求めるのだろう?なぜ、他人の問題に巻き込まれることに煩わしさを感じることがあるのだろう?私たちの生きる源泉である「問題に取り組む機会」を放棄してまで。


そう。問題には種類がある。それに取り組むことによって私たちに生きる源泉を与えるものと、むしろ私たちを枯渇させるものと。後者は、もともと役に立たないか、用済みになったかいずれかだ。その違いはどこにあるのだろう?


結局重要なのは、解くに値する問題はどこにあるのか?ということだ。これは、その問題の解決が、社会に役立つという意味でも、ましてや自分に役立つという意味でもない。解こうとする行為そのものが、自分を救うような、そのような奇跡のような問題を、私たちは求めてやまないのだ。

だからこそ、自分自身が供給する問題が残念ながらそれに値しない時には、他人の問題をかき集めさえして、その奇跡を探し求めるのだ。それ程までに私たちは飢餓状態だ。


解決が奇跡を与えるのではない。問題が奇跡を、そして救済を与えるのだ。