倫理の可能性

私たちの社会では、一般には、「それが倫理的であるかどうか」ということが問われる。もう一歩引いて、「どういうことが倫理的だと言えるのか?」が問われることもある。いずれにせよ、最終目的は「倫理的であれ」というメッセージを発することだ。
しかし、本当の問題はそんなことではない。


「そもそも、人はなぜ倫理的でなければならないのか?」


これも確かに重要な問題ではある。しかし、最も重要な問題ではない。
最も重要なのは、次の四つの問いだ。


人はなぜ、倫理的であれというメッセージに従うのか?
私たちの社会ではなぜ、「人は倫理的であれというメッセージに従う」というような期待が共有されているのか?
人はなぜ、「どういうことが倫理的だと言えるのか」ということについて合意しうるのか?
私たちの社会ではなぜ、「どういうことが倫理的だと言えるのか、ということについて合意しうる」というような期待が共有されているのか?


つまり、我々の社会に、倫理に関してある種の行動の集合的構造が形成されるということがいかにして可能なのか、ということが最も重要な問題だ。前半にあげたいくつかの問いは、この「最も重要な問い」に関する派生的な問いにすぎない。このような「行動の集合的構造」を形成するための「手段」の議論にすぎない。


そしてここにはそもそも、一体誰が、どんな動機で、そのような「行動の集合的構造」を求めるのかというもう一つの問いが隠されている。