メディアリテラシーを学ぶことで私たちは何を得るのか?


「メディアは情報を恣意的に編集していることに気づきましょう。」


はい。


「具体的には「こんなふうに」「あんなふうに」編集しています。それは「こんなふうな」「あんなふうな」意図があるからだと推測されます。」


はい。


「あなたも、メディアの言うことを鵜呑みにせずに、自分の頭で考えましょう。」


はい。
でも、自分の頭ほど恣意的で信用できないものは無いように思うんですが?


「だからこそ、複数の情報ソースにあたることが必要なのです。また、一次情報の収集も必要です。」


なるほど。それだけのコストを一体誰がかけられるのか疑問ですが。もしできたとしても、そもそも複数の情報ソースだろうが「一次」情報だろうが、結局恣意的で編集されたものには変わりないし、それらの「違い」がわかったところで、結局「異なる方法でねじまげられたもの」がたくさん集まるだけで、「真実」はわからないんじゃないですか?


「それでも、何もしないで受動的にメディアの垂れ流す情報を信じるよりはずっとマシなのです。」


あなたの言っていることを信じることはメディアリテラシーには反しないのでしょうか?


「それは非建設的な懐疑です。」


よくわかりませんが、そもそも「真実」とか「事実」というようなものがあって、賢明であればそこに接近できるというストーリー自体、うまくイメージできないのです。
現実はものすごく複雑で不透明で流動的で多次元なもので、というよりそもそも「もの」なんて名付けられるようなはっきりした境界を持ったシロモノなんかでは無い何か、なのではないでしょうか。
それを認識したり記憶したり言葉で描写したり誰かに伝えたり記録にとどめたり議論したり評価したり批判したりしようとするならば、マスメディアであろうが個人であろうが、悪意をもっていようが愚かだろうが利口だろうが、強引に「なにがしかのもの」として読み替えるしかないわけですよね?


「仮にそのような水準で語るなら、そうだとも言えますね。」


だったらもう、リテラシーがどうとかこうとか、そういうレベルじゃないんじゃないですか?「リテラシーを高め」たところで、一体何がどうなるというんでしょう?何かがはっきり見えるようになるとか、自分にとってより合理的な判断ができるようになるとか、そういうことが果たしてあり得るんでしょうか?


「どうでしょうね。困りましたね。これはあまり言いたくなかったことなのですが、一つだけ言いましょう。信じる人が多ければ、それがゲームのルールとして実際に有効になる、ということです。」


メディアリテラシーのことを言ってるんですか?


「何でもいいのです。あるまとまりを持った思考体系を世に広め、多くの人々がそれを採用するようになれば、「そのような人々」が構成する社会を前提としたプランを立てることができるようになります。社会の可視性、操作可能性が増すわけです。だからこそ私たちは、こうやって社会に向けてアナウンスを続けているのです。」


あなたたちは、社会を操作しようとしているのですか?


「その答えはあなたにとって必要なものですか?」

広告とは、無料の商品販売行為である。

広告も商品販売も、結果としてある価値を消費者に届けようとしていることにはかわりないわけですよね。商品が売れるために広告を行うわけですが、そもそもそれでどうして商品が売れるようになるかと言うと、単に認知度が上がるとか興味がわくとかいうことにとどまらず、その商品を買った時の「実際の体感価値」が向上するから、それを消費者が予期するからだと思うんですよ。具体的に言うと、CMが与える企業のブランドイメージを自分のイメージ向上に活用できるとか、その商品を使った時に充実した体験を味わえるとか、その商品を持っている他者との連帯感や、持っていない他者への優越感を味わえるとか、そういうもろもろのことが全部組み合わさったものを、「他の消費者がみなおなじように感じていることを十分な蓋然性のもとに予測できる」という前提の下に、いわば「無料の商品」として、我々は広告に接した時点で既に買っているのではないか。「将来の体験の予期」という商品をね。


実際、その広告を知らずにその商品を購入した消費者と比較して、「将来の体験の予期」を無料購入した消費者の満足度は明らかに大きいはずだ。なぜなら、モノの価値はもはやそれ単独で決まるわけではなく、周囲の文脈とどのように結びつけられるか、それを他者とどのように共有できる(と期待できるか)という意味付け、物語の生成に大きく依拠しているからだ。


そんなすばらしい「将来の体験の予期」としての「広告」を日々無料で手に入れている我々。本当なら、広告には莫大な制作費がかかっているわけだから、制作者は当然売った時点で対価をもらいたいだろう。しかしこの商品(タイプA)はあくまで「将来その広告が対象としている商品(タイプB)を購入したときに初めて成就する価値」を売っているので、その場で対価を回収というのはなかなか難しい。しかも、広告はいまのところマスメディア経由が殆どで、一斉発信だ。誰の購買行動にどのような影響を与えたのかをトレースするのが難しい。もちろん、この費用は商品価格に転嫁される。


言ってみれば、インフラを整備する公共事業のようなものだ。こういったタイプのプ商品は、人々は税金などという見えない形で一律徴収されているが、利用者の個別の消費行動だけにまかせていてはとても売買が成立しない。人々は、税金のことを忘れ、これを「無料の商品(タイプA)」だと位置づける。例えばそれが道路であれば、人々は自動車交通の便利さを予期し、自動車(タイプB)を購入するようになる。(その税金がふたたび道路整備に回ったりするわけだ。)


このように商品は、無料かつ一律に供給されるタイプAと有料かつ個別に供給されるタイプBにわかれるわけだが、果たして他の種類はないのだろうか?
たとえば、タイプBの商品価値を事後的に高めるような、無料かつ個別に供給されるタイプA'の商品(情報)(=アフターサービス?)だってあるだろうし。購入者のみをターゲットとして、その商品にまつわる、その商品の価値が高まるような物語を伝える、というようなことをやったっていい。既にその商品を購入した者にとっての広告って、そういう意味もあるのかもしれない。その辺りをもう少し意識したら、ものすごく顧客のロイヤリティーが高くなるんじゃないかな。
そう考えると、あらゆるものが商品であって、対価と取引形態が違うだけではないかと思えてしまう。その辺で企業がアウトプットするあらゆる財とサービスと情報を「消費者の視点で!」統一的に整理できないだろうか。


このあたりの話とうまくつなげられないかな。

ものづくりとは単に人工物の製造ではなく、それを手段とした社会改造として捉えると、ある種のファッション企業の活動が綺麗に見えてくるのではないかと思うのである。社会貢献企業論などは、この目線で論じられるべきであろう。

まず社会構想があり、それにしたがって社会文化が評価され、それにしたがって製品企画が評価され、それにしたがって製品設計情報が評価され、それにしたがって製品現物が品質評価を受ける。こうして考えると、商行為も経済行為も産業現象も、ものづくり論の手法で解析できるんじゃないかな。
社会構想の品質はなんで判定されるか?その構想の良し悪しを決める社会の原理とかあるのかな。あるんだろうけど、それは人間に関知できないのではないか。となると人間が携われるのは社会構想と社会文化の整合性であって、人工物を介して両者が相互学習をするというのが究極の枠組みかな。

http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20070104/1167848080


社会改造っていうのは何も商品単体でやらなければならないわけではないんだし、広告とか、各種販売促進とかタイアップとか、そういうのを全部総動員して社会を構想し、改造すると考えればいいのではないだろうか。


でも、社会改造を目指したり社会構想をしているのは企業の人なのかな?企業の人だけなのかな?たとえその部分にとりあえあず焦点を当てる「作業仮説」だったとしても、彼らはどこからそういう影響を受けたり、制約を受けたりしているのかな?企業外の人間が、社会構想を立案するにあたって果たしている役割についてはどうなんだろう?
そういう構想とか情報とかいうものは全て基本的には境界を越えて循環しているものだと思うが。(そうでないとそもそも社会に対して有効な商品による有効な改造なんてできないだろうし。)

私たちはなぜ他人の「問題解決」をしたがるのか?


自分の問題解決だけで手一杯だと言うのに。
他人の問題を解決することが、自分の問題解決の道筋になっているのだろうか。


一口に問題解決と言ってもいくつものレイヤーがある。
より表層的な状況から、その原因、そのまた原因を辿っていき、どこまで深いレイヤーで問題を解決するか。
あるいは、直接的な行為から、その帰結、そのまた帰結を辿っていき、どこまで上位の目的を設定するか。
どの深さのレイヤー、どの上位目的を対象にするか(そして、対象にする能力を持っているか)ということに、その人の問題解決志向の本質が表われる。


他人の問題を解決するということは、単純な義侠心もあるだろうが、むしろ自分の問題を解決するためのシミュレーションであり、てこであり、共鳴板である。それどころか、もはや解決不可能な自分の問題を、受け入れ可能な形で修飾するための迂回路でもある。


よく、科学は真理の究明で、工学は問題解決であると言われる。しかし私は、科学もまた、一種の認識的、というか「脳内問題解決」だと思う。そのままではどうにもおさわまりのわるい不安定な脳の状態、という問題を、「真理を究明する=安定状態にする」ことによって解決するのだ。あらゆる学問も、芸術も、文学も、スポーツも、もっと言えば全てのコミュニケーションと行為は問題解決なのだろう。


では、問題は解決してしまえばそれでよいのか?問題の無い状態が理想なのか?自分や周りの人間を観察していると、どうやらそうではないように思える。むしろ私たちは常に、「問題」を欲している。「問題を解決した状態」が目的なのではなく、「問題を解決するプロセス」自体を求めているかのようだ。私たちは、虚無感に押しつぶされてしまう恐怖から逃れるために、たとえそれを捏造してでも、一生問題を解決し続けなければいけないという強迫観念にかられている。


私たちは、世界を、問題のパターンとして認識しながら生きている。世界は問題によって構成されているのであり、そうでなければならないのだ。


私たちは今、問題に取り組んでいる、問題を解こうとしている、と自覚することによって初めて、生きている資格を与えられているような気がするのだ。だからこそ、それが自分の問題であろうが他人の問題であろうが、実はあまり関係ないのだ。「問題に取り組んでいる」のが「自分」である限りは。


それならば、私たちが時に、それほどまでに渇望する「自分の問題」を他人に解決してもらおうとするのはなぜだろう?なぜ私たちは、他人に助けを求めるのだろう?なぜ、他人の問題に巻き込まれることに煩わしさを感じることがあるのだろう?私たちの生きる源泉である「問題に取り組む機会」を放棄してまで。


そう。問題には種類がある。それに取り組むことによって私たちに生きる源泉を与えるものと、むしろ私たちを枯渇させるものと。後者は、もともと役に立たないか、用済みになったかいずれかだ。その違いはどこにあるのだろう?


結局重要なのは、解くに値する問題はどこにあるのか?ということだ。これは、その問題の解決が、社会に役立つという意味でも、ましてや自分に役立つという意味でもない。解こうとする行為そのものが、自分を救うような、そのような奇跡のような問題を、私たちは求めてやまないのだ。

だからこそ、自分自身が供給する問題が残念ながらそれに値しない時には、他人の問題をかき集めさえして、その奇跡を探し求めるのだ。それ程までに私たちは飢餓状態だ。


解決が奇跡を与えるのではない。問題が奇跡を、そして救済を与えるのだ。