インナーテニス―こころで打つ

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なぜ社員はやる気をなくしているのか

なぜ社員はやる気をなくしているのか

知識や技能の評価に比べて、態度・価値観や持続的行動の評価は極めて難しい。
価値観を直接問えば、「〜べきだと思います。」「〜が大切だと思います。」「〜しようと思います。」「努力します。」と誰でも答えるだろう。単に「問い」に対するその場限りの適応的反応を引き出すだけだ。
持続的行動は、原理的には測定可能だが、コストを考えると現実的ではない。


しかし、価値観や一貫した行動選択も学習の結果であることには変わりない。ただ、知識や技能の学習とは異なる種類の学習なのだ。
問題は、どのようなフィードバック情報を与えるかだ。
知識学習のフィードバック情報は正解/不正解。
技能学習のフィードバック情報は物理的成功/失敗。
価値観学習のフィードバック情報は?


ある種の快/不快を伴う体験。主観的なもの。


(しかしそこから振り返ってみると、知識学習も技能学習も、結局快/不快体験を動機としているのではないか。そこで学ばれているのは、「知識習得・技能習得をよしとする価値観」なのではないか。)


ただし、価値観の形成過程は、フィードバック情報としての体験そのものだけでは説明できない。その体験をどのように解釈し、自己イメージに統合するかという「ストラテジー」が、個人個人で異なるからだ。


「フィードバック情報としての体験」×「個人の体験解釈ストラテジー

この枠組みでしばらく考えてみよう。

CD付 初歩から学べる本物の響き 憧れのジャズピアニスト

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これはいい本。
がんばって練習します。

「自己規定」というコミュニケーション作法

「自分は○○な人間である」というタイプのコミュニケーションがある。
必ずしも自己観察がよくできているとか、自分を相対化できているというわけではない。
むしろ、「そのような自己規定と他人の目から見たイメージの食い違い」や「そのような自己規定的コミュニケーションがどのような結果を招くかということに対する鈍感さ」を感じさせてしまいがちだ。


もちろん、人は皆それぞれ自己規定をしている。


しかし、それをどの程度自分の行動や思考の枠組みとして強く意識するかは人によって異なるし、それを口に出して言うかどうかとなるとまた別問題だ。口に出して言うということは、他人とのコミュニケーションの場をそれによってデザインしようとする意図があるということだ。


自己規定にも程度がある。部分的なものから包括的なものまで。後者は言うなれば、自己のキャラクター化だ。それを口に出して言うということは、自分をそういうキャラクターだとみなしてコミュニケーションをしてくれという要請にほかならない。


そのような要請は、冒頭にも書いたようにリスキーだと思うのだが、なぜかそういったコミュニケーション作法を好む人々がいる。怖くないのだろうか。


自己のキャラクター化というのは、複雑性の縮減である。自分を、自分にとっても他人に取っても扱いやすくするための方略である。気持ちは分からないでもない。何らかの目的を達成するためにそういうことが必要な場面もあるだろう。


しかし、単純なものはつまらない。


いや、まてよ。


もし自分が、特に自分に興味を持ってもらいたいと思わない他人に接する時、どうするだろうか。わずらわしさを避けるために、あえて自己をキャラクター化してみせたりはしないだろうか。


そうすると、どういうことだ?


[追記]
http://d.hatena.ne.jp/bluede/20070509/1178725702

例えば、初対面の女性が「私って男っぽいとかよく言われる」などという言葉を発したとき、それを聞いた男性が、言葉通りに「男っぽい思考をしがちだ」「言葉遣いが男っぽい」などと相手の主張を受け取るか、それとも全くその逆から考えるか、という2つの選択肢で考えてしまってはいないでしょうか? もし、その女性が芝居や嘘が非常に上手い場合、・・・あなたはどういう判断を下すでしょうか? 「男っぽい」か「女っぽい」かではなく、全く別な判断基準*1を見逃していないでしょうか?

なまじ、「女はこうだ」「男はこうだ」などといった「決め付け」とも受け取られかねない言説に異論を発しがちな人、個別性を重視する人ほど逆に相手の術に引っかかりやすいのではないかと思います*2。

なるほど。そういう意図/可能性もありますね。

計算不可能性を設計する―ITアーキテクトの未来への挑戦 (That’s Japan)

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クリエイティブ・クラスの世紀

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(昨日の続き)

宮台氏の議論は、まず現状認識があって、その問題点の指摘、そしてそれに対する処方箋、という三部構成になっている。それに対して鈴木氏、堀内氏の反論は、処方箋によって起こりうる副作用に対する懸念を示すという形をとっている。あるいは、現状認識自体が、「人間主義的価値観」からは受け入れ難いので、それを「否認」しようとする傾向が見られる。


しかし、いくら副作用に対する懸念を示したところで、現状認識を否認してみたところで、現状の問題点を解決することはできない。現状認識や問題点の指摘そのものに対して根拠のある異論を唱えるのならまだわかるのだが、それについては殆ど不問で、処方箋に対する懸念の表明に終始している。もし現状認識と問題意識について異論が無いのであれば、処方箋の代替案を出すべきではないか。そうしなければ現状の問題は放置されたままだ。そのような問題を放置すること自体、社会科学者としての責任を問われることになると思う。


あるいは、せめて、宮台氏の処方箋をとりあえず(あえて)認めてみせた上で、その実現可能性についてより具体的な形で宮台氏自身に説明を求め、そこに問題があれば指摘するという議論の戦略をとったほうがよかったのではないか。つまり、もしその処方箋に問題があるのであれば、みずからそれを語らせるように誘導すればよかったのではないだろうか。


どうも議論の仕方がナイーブすぎるような気がする。もちろんこれは彼らに限ったことではなく、宮台氏の対談相手は大抵の場合、どんどん手詰まりになって、いつの間にか「それでも自分は〜を信じたい」というようなやけっばちというか開き直りと言うか、自閉的な願望を口にしてしまうことが多いような気がする。


それから、特に鈴木氏の発言には、なんだか「名付ければそれでOK」と思っているような気配を感じる。「感情の豊かさなどの、ある種の人間学的部分をもう一度復活」って何だろう?「感情の豊かさを復活させよう!」って言えば感情は豊かになるのだろうか?そもそも、どんな感情が「豊か」なのか、誰が決めるのだろう?「統御論一辺倒に反対」って言うけれど、イメージの悪い言葉で呼んでそれに反対を唱えれば何か問題が解決するのだろうか?