「自己規定」というコミュニケーション作法

「自分は○○な人間である」というタイプのコミュニケーションがある。
必ずしも自己観察がよくできているとか、自分を相対化できているというわけではない。
むしろ、「そのような自己規定と他人の目から見たイメージの食い違い」や「そのような自己規定的コミュニケーションがどのような結果を招くかということに対する鈍感さ」を感じさせてしまいがちだ。


もちろん、人は皆それぞれ自己規定をしている。


しかし、それをどの程度自分の行動や思考の枠組みとして強く意識するかは人によって異なるし、それを口に出して言うかどうかとなるとまた別問題だ。口に出して言うということは、他人とのコミュニケーションの場をそれによってデザインしようとする意図があるということだ。


自己規定にも程度がある。部分的なものから包括的なものまで。後者は言うなれば、自己のキャラクター化だ。それを口に出して言うということは、自分をそういうキャラクターだとみなしてコミュニケーションをしてくれという要請にほかならない。


そのような要請は、冒頭にも書いたようにリスキーだと思うのだが、なぜかそういったコミュニケーション作法を好む人々がいる。怖くないのだろうか。


自己のキャラクター化というのは、複雑性の縮減である。自分を、自分にとっても他人に取っても扱いやすくするための方略である。気持ちは分からないでもない。何らかの目的を達成するためにそういうことが必要な場面もあるだろう。


しかし、単純なものはつまらない。


いや、まてよ。


もし自分が、特に自分に興味を持ってもらいたいと思わない他人に接する時、どうするだろうか。わずらわしさを避けるために、あえて自己をキャラクター化してみせたりはしないだろうか。


そうすると、どういうことだ?


[追記]
http://d.hatena.ne.jp/bluede/20070509/1178725702

例えば、初対面の女性が「私って男っぽいとかよく言われる」などという言葉を発したとき、それを聞いた男性が、言葉通りに「男っぽい思考をしがちだ」「言葉遣いが男っぽい」などと相手の主張を受け取るか、それとも全くその逆から考えるか、という2つの選択肢で考えてしまってはいないでしょうか? もし、その女性が芝居や嘘が非常に上手い場合、・・・あなたはどういう判断を下すでしょうか? 「男っぽい」か「女っぽい」かではなく、全く別な判断基準*1を見逃していないでしょうか?

なまじ、「女はこうだ」「男はこうだ」などといった「決め付け」とも受け取られかねない言説に異論を発しがちな人、個別性を重視する人ほど逆に相手の術に引っかかりやすいのではないかと思います*2。

なるほど。そういう意図/可能性もありますね。