「合理性ゲーム」に乗るか、降りるか

人は時に、普通に考えればとても合理的とは言えない考え方を採用してしまったり、そのような考え方に基づいた行動をとってしまったりする。人によっては、「時に」ではなく「かなりの頻度で」あるいは「一貫して」そうであったりする。
他人が「合理的に考えよ」「合理的に行動せよ」と言ったところで、無駄であることが多い。場合によっては逆効果だ。
これはなぜか。


合理的に考えることや、合理的に行動することは、絶対の善とか、規範なのではなく、それに乗るか、降りるかを選択できる「ゲーム」に過ぎないのだ。そのゲームが実りのあるものだと感じる限りにおいて、人々はそのゲームに乗り続ける。そのゲームがたとえ社会一般に妥当だとされている考え方を踏襲していたり、自分にとって有益な行動を導くものであったとしても、「実りが無い」と感じられれば人々は容易にそのゲームから降りる。


一方で、「合理性ゲーム」から(偶然に、あるいは確信犯的に)外れてしまった人々に対して、「合理性ゲーム」に乗るべきだ、乗らないのはバカだ、と言う「合理的な人間」がいる。時には、人々はその「忠告」に従う場合もあるだろう。しかし時に人々は、合理性ゲームに乗ったからといって(乗ったが最後)、自分はその「合理的な」人間より「合理性の低い」人間として、下位に位置づけられ続けるに過ぎない、と感じてしまうことがある。


この絶望感の大きさを軽視してはならない。この絶望感の大きさは、合理性ゲームによって得られる「実り」を打ち消して余りあるからだ。この絶望感こそは、人々を(全体としては「合理性ゲーム」の片隅になんとか踏みとどまっていた人々さえ)合理性ゲームから降りさせ、もしかしたらゲームの中で自分が比較的優位に立てるかもしれない(少なくとも、劣位であることを意識しないですむような)「非合理性ゲーム」に参入させる要因そのものなのだ。


もちろん、結局は本人の問題であり、そのようなことに絶望感を覚えるとはたいそう軟弱なり、で済ませられないこともない話だ。しかし、そういった絶望感が蔓延し、合理性ゲームから大挙して人々が降りはじめ、非合理性ゲームへの参加者が増すと、それにつれて「ネットワーク外部性」が働き、「合理性ゲーム」に留まっている人の利益さえ損なわれかねない。


正に、「合理性ゲーム」そのものが「合理的」でなくなるのだ。
そうすると、「合理性ゲーム」に留まっている人々が、「非合理性ゲーム」へ人々を差し向けるような忠告をすることは、実は合理的葉振る舞いではないと言える。つまり彼らも所詮、「非合理性ゲーム」の参加者だったのだ。