もしもあの時、

こうしていたらと、そんなことばかり繰り返しながらここまで生きてきてしまったが、
本当に「こうする」ことができる「意識」を持っていたとしたら、それはもう「自分の意識」とはかけ離れた、「他人の意識」なのだ。
他人にその「もしも」の人生を生きてもらっても仕方ない。


自分は自分としての自分から逃れられない。


しかし一方で(というかだからこそ)、人間は自分としての自分を生きるだけでは、どうにも「生ききれない」のだ。

今までずっと、そんな風に「生ききれる」というか、「逃げ切れる」と思(いたが)っていたのだが、やはりどう考えても無理だ。もはやそれは、明確な壁として自分の前に立ち現れている。手応えさえ感じるほどだ。

我々はみな、自分の生をいくつもの他人の生(すなわち、ありえたかもしれない自分の生)に重ね合わせ続けることによって、かろうじてこの壁を回避しているのだろう。


本当に、とんでもない思い違いをしていたよ。