ゲームを始める自由

私には「男女は同一の社会的リソースを競合的に奪い合っている」という言明が事実認知的であると同時に遂行的であり、むしろ遂行的であるところに政治的意図があるように思われるのである。

「同一の社会的リソース」というのは「ありとあらゆるリソース群」のことを指していて、それらへのアクセス可能性の男女における非対称性が問題とされているのだから、アクセス可能性が対称になったからといって、論理的には実際に求められるリソースの多様性が失われるということを意味しないのではないだろうか。むしろ多様性が増大する可能性さえあるだろう。


もちろん現実には、そのような多様性を刈り取って規格化したいという意図のもとにこのような言明がなされる場合は少なくないだろう(それは雇用者の立場からの言明としてありうるのと同時に、非雇用者の立場に立った言明としてもありうる)。また、アクセス可能性が対称になってしまったら、高い蓋然性でそのような多様性が失われるような現実のメカニズムが存在しているのかもしれない。そうだとしたら、そのような現実のメカニズムについて学んでおくことは有益であろう。


しかしいずれにしても、私たちは引用文にあるような言明を禁止することはできない。
多様性を護持するために、リソース群へのアクセス可能性の、社会構成集団間の非対称性を堅持すべし、などという主張が普遍的に受け入れられるとも思えない。

個体レベルで言えば、それは「いくらでもあなたの代替物がいる」ということだからである。

むしろ私たちは歴史の中で、「自分が他人の代替物になりうる社会」を目指してきたのではなかったか。それは当然のことながら、「他人が自分の代替物になりうる社会」でもあったわけだが。


結局、それぞれの個人や共同体が、自らの選択意思とコスト負担によって、そのような多様性を護持するようなゲーム(自らがその多様性の一翼を担い、かつ他者をもそのゲームに動員しようとするゲーム)をしかけていくしかないのだと思う。私たちには少なくとも、そのようなゲームを始める自由は与えられている。