スキルによる超越

私たちがトレーニングによってなにがしかのスキルを身につけるということの目的は、例えば特定の職を得たりキャリアップしたりすることによって、ある社会的ネットワークに参入することであったり、より大きな経済的リターンを得るということだったりする。


一方で、そのようなスキルを身につけること自体、自己表現の手段の獲得、自己認識の変革、自己肯定感の増大、などといった、いわば「自己実現」に結びつくものであったりもする。


実のところ、個人のスキルの向上が、就職や経済的なリターンに結びつくというのは決して必然ではない。むしろそういった「社会の側の事情」とは独立したものであると考えるべきであろう。言い換えると、私たちが黙々と鍛錬を重ねる行為は、本来社会という平面に垂直に立ったベクトルなのであり、それがたまたま、少し角度がずれていて、水平方向の成分を持っているがゆえに、社会の中ではからずも機能してしまい、それに対する報酬を得てしまったりもするのであろう。


レーニングとは、社会を突き抜ける営みだ。スキルを身につけることは、社会とは関係ない。むしろ、社会との無関係さを追求する行為だ。自分にまとわりついた社会の垢を落とし、ひたすら垂直方向に延びていく行為だ。


時に、偶然にもこのような営みが、先に述べたような個人の利益どころか、自分の属する共同体全体の利益を向上させたり、何らかの深刻な社会的課題を解決することに一致する場合がある。なにやら普遍的な、真とか善とか美の達成に関わってしまったりすることさえあり得る。その場合には、「スキルの向上」という営みは、単なる個人的行為を越えた社会的意義を帯びるがゆえに、自分自身にとっても、周囲から見ても、何かしら個人のエネルギーを越えた情熱の源泉となったり、崇高ささえ感じられたりするものだ。


本来独立であっておかしくない二つの方向性が、どういうわけだか一致することがある。かつて、ある一時期の社会には、そのような「一致」がそれなりの頻度で見られたのかもしれない。


現代は、そのような時代ではない。


両者の不一致を言いたいのではない。
社会は「平面」と呼ぶには多次元化しすぎ、私たちの延ばそうとしているベクトルが、社会から独立することが果たして可能なのか、逆に、社会に内在することが果たして可能なのか、そもそも今現在、どの方向を向いているのか、いずれも全く不確実なのだ。


現代ではもはや想定できない「社会という平面」が存在していた(少なくともそのように見える)時代の物語であることにおいて、この映画は、最近よく見られるスキル習得系の映画と一線を画していた。


(「フラガール」)