価値の最大化とモチベーションの最大化

飛行機で隣の席に座った人としゃべったりすることは普段は無いのだが、何かのきっかけで会話が始まると目的地まで時間を忘れて話し込んだりして、お互いとても楽しかったりする。こんなに楽しいんだったらもっと早く話しかければよかったと思ったりして。そのような時、世の中は決してゼロサムゲームだけではなく、何かきっかけが与えられればお互いが他人のために価値を生み出すことができ、それをしない場合と比べてどちらも幸福になれたりするのだと実感する。つまり、時として、社会の「幸福の総和」が増えたりするのだ。


経済のことはいくらかんがえてもよくわからない。
暫定的な理解としては、経済とは、社会の構成員のそれぞれが、(自分を含む)他人のために生み出す価値を最大化することを目指す営み、なのかな、と思う。
(「良い」経済とは、と言った方がいいかもしれない。)
経済政策とは、そのような価値の最大化のために、社会システムの計算能力を高めていくことだ。
「価値を創出しないまま時間が過ぎていく」という機会損失を減らす、といってもいいかもしれない。


計算能力を高めるためには、構想、計画、情報収集、相対比較、意思決定といった情報の取り扱いに関する部分を改善していくことももちろん重要だが、それに加えて、個々の構成員がそのような計算に参加し、精一杯能力を使うためのモチベーションを高めていかなければならない。
金利を上げたり下げたり(その結果インフレを抑制したり促進したり)というようなことは、一見すぐに均衡が訪れて結局無意味になってしまうような気がするのだが、そのような政策に意味があるとすれば、上に挙げた「社会の構成員のモチベーションを高めること」なのだろうか。モチベーションを高めるような「初速」をうまく与えることができれば、あとは自己触媒でしばらくはうまくまわっていくと信じられているのだろう。


不況が問題なのは当然なんだろうけど、当然過ぎて実はよくわからない。
モノが売れないなら作らなければよいし、それで給料が下がっても物価も下がるわけだから相殺されるのではないか。
それに、そもそも「不況=モノが売れないこと」だとするなら、「買わない」という選択を消費者自身がしているわけだから、給料が下がっても消費者は困らないのではないか。いや、給料が下がるから買わなくなるんだ、ということなのかもしれない。
じゃあ、そもそもどうして給料が下がるんだ?
ニワトリと卵。


しかし。
買わなくても生きていけるんだったら、それでいいのではないだろうか?
単に経済の全体の規模が小さくなるだけだ。
人々が「経済システムの外で」生きていく割合を増す、という選択をしたにすぎない。


だとするとやっぱり、モノが売れないとか給料が下がるとか物価がどうこうとかいうこと自体が問題なのではなくて、社会全体の価値を最大化する個々人の営みに対するモチベーションの総和が、小さくなってしまうことが問題なのだろう。人々が最低限の生活をするために必要な価値の総和を供給するのに必要なモチベーションの量を満たせなくなってしまったら、社会が破綻するのだろう。


それとは別の問題として、再分配の問題がある。どういうモチベーションを持っていてどういうパフォーマンスをあげた人間にどれだけ分配するのが適切か、ということなのだが、これもまた、どのような再分配のパターンを採用すれば価値創成モチベーションの社会的総和を最大化できるか、ということになる。(貧富の差が拡大して治安が悪化し、富裕層の安全が脅かされたりしないようにする、ということも含めて考えるなら、「「価値創成+不幸最小化」モチベーションの社会的総和の最大化」と言った方がいいかもしれない。)


一方、将来の経済的不安が大きいと、できるだけお金を貯めておきたいと思う。そんな時に、個人にお金を使わせるために政策によって物価を上昇させるっていうのはどうなんだろう?将来の地獄Aを回避するためにお金を貯めているのに、それを使わせようともっと悲惨な地獄AAAを目の前に突き出して地獄Aを選ばせる、みたいなやり方のような気がする。まあ、みんなが地獄Aを選べば実はそれは地獄ではなくなる、ということなのだろうが、なかなか信じられないですよ、それ。

(つづく)


経済学という教養

経済学という教養