打ちひしがれている人に

打ちひしがれている人に、何か規範的なことを言ってもほとんど聞いてもらえない。たとえその規範に従うことで、打ちひしがれている状態から脱することができるとしても、そのような想像力を働かせるには余裕がなさ過ぎるのだろう。
未来の快のために現在の快を差し控えたり、現在の不快を引き受けたり、ということが、どのようにして可能になるのだろうか。未来の現在における価値は、どうしていつも過小評価されるのだろう。これもまた、想像力の問題なのだろうか。
頭を使うことは、苦しいことだ。できれば、シンプルな解決策が欲しいと誰しも思うだろう。できれば、この人を信じていれば間違いない、という人に出会いたいだろう。もちろん、頭を使うことを喜びとする人もなかにはいるだろうが、それとて、程度問題なのではないだろうか。「頭を使う」ためには、どのような動機付けが有効なのだろうか。ましてや、「自分の頭の使い方について考えるために頭を使う」ためには、どのような動機付けが有効なのだろうか。
やはり、一つひとつの、具体的な成功体験、失敗体験を積み重ねていくしかないのだろう。それによって、想像力を働かせること、未来の価値を現在に織り込むこと、頭を使うこと、頭を使うことについて考えるために頭を使うことの効用を、実感していくしかないのだろう。そういった経験を、完全に打ちひしがれてしまう前に積んでおくしかないのだろう。