ストロベリーショートケイクス

矢崎仁司の映画は、いつも「完了形」だ。
すでにもう、終わってしまったことを、後から振り返って描く。
映画なんてみなそうだろうとか、そういう話ではなくて、
物語の冒頭から、というより映画館のスクリーンに明滅する光が目に入って来た瞬間から、「全てが既に終わっている」という感覚に圧倒されるのだ。


監督の、4人の女性に対する視線は、限りなく優しい。息を飲む程だ。
そしてそれはどこか、しかし確実に、性的要素を含んだ視線だ。
彼女たちの描き方があまりにも愛おしいが故に、それが性的であることを隠している。


一方監督の視線は、徹底した絶望に満ちている。彼女たちの未来を、状況から自分たちで抜け出す力を、むしろ全く信じていないと感じる。
ラストシーンは希望じゃないかって?
私には、あれさえもただの意匠に思える。

そして、そのような視線が映画を見る者に蔑みとして映らないのだとすると、それは実は矢崎自身が、自分に絶望しているからなのだ。自分自身が「完了形」であるからこそ、彼女たちを「共振するもの」として、他の者には到底真似のできない作法で慈しみ得るのだ。
(その意味で、彼の「性的な視線」は、「性的欲望の対象への視線」ではなく、「対象への同化から生まれる性的体験」なのだ。)